医学と芸術展
非常に興味深いテーマだったので、これは是非とも見に行きたいと思っていた。森美術館にて。
http://www.mori.art.museum/contents/medicine/
そもそもArtの語源であるArsは技術であった。それは医術も含まれる。
参考:「ことばの歴史をたずねる旅」芸術と技術
http://www.kitashirakawa.jp/taro/eigo34.html
細分化され分かれたものが再び見直されるような感覚に思えた。
では、今、何故、この展覧会が行われるのだろう?
ある脳科学者が言っていた。人間の文明と文化が築かれるきっかけとなったのは“死の発見”であるという。
死を恐/畏れた結果が命を繋ぐための医術であったり、客観的に見るための芸術であったと私は思う。
芸術は直接、人に力を行使する事は無いが、人に伝える、訴える力を持っている。
この展覧会では、芸術を通して、医学の歴史を学ぶことも、死を意識する事も、そして今現在の医療が抱える諸問題も見るものに伝えるのではないだろうか。
過去、現在、未来、殆ど人間の本質に関わる主題ではないだろうか。
私はこの展覧会の殆ど全ての作品に対して、感動を持つことが出来た。
だから、個々の作品について感想を書くことは難しく、馬鹿馬鹿しいことだと思う。
しかし、それを省くと漠然としてしまう気がする…そのジレンマの中で思いつくまま書いてみようと思う。
この展覧会に行くにあたって、目当てだった作品群について。
レオナルド《頭蓋骨の習作》
今回日本初公開となるレオナルド素描。絵画描写や彫刻においてリアルな人間を表現するために人間のメカニズムを知ろうとした。
それ故に細密に描写されている。レオナルドの素描は、小さいながらも毛細血管まで描かれている。
頭蓋骨の素描は遠目からも判る、力のある素描だった。近くで見ると、入念に観察している事が伺えた。そこには骨を通して、人間の心の動きが身体にどのように影響しているかを探求する画家の姿だ。感情表現を鋭く描写するレオナルド。そのための観察の記録。
それを抜きにして、頭蓋骨が“メメント・モリ(死を想え)”の象徴である事を考えると、死の探求にも思えてきた。
デミアン・ハーストの作品。彼の作品のテーマが“生と死”についてなので、言わずもがな。
《外科手術(マイア)》
剥製によるものではなく、油彩画。
記録写真を大判に模写したような作品。パートナーの帝王切開時のものらしい。
それまでの絵画に残る解剖講義の延長のようにも思えた。
《ニューヨーク》
薬棚に並ぶ薬箱。私には分からないが、それらはアメリカには馴染み深い銘柄の薬なのかもしれない。
これだけ多くの薬が世の中にはある。
同時に、そのカラフルで整然と並ぶ様は区画毎に摩天楼を髣髴とさせた。
《GFPバニー》
以前話題になっていた。
“GFP BUNNY"
http://www.ekac.org/gfpbunny.html
発光クラゲの遺伝子を持ち、発光するウサギ。
このウサギが“実験動物”としてではなく“アート”として現れた事にも。人を不思議の国に引き込むウサギは、現実世界では緑色に発光していた。
ふと、クローン羊・ドリーの事が思い出された。クローニングされた細胞は老いていたため、生まれてきて6年で死んだドリー。今はエディンバラ王立博物館に剥製がある。
この場にいない事を不思議に思った。アートではないからだろうか?
ほか、興味深かったのは“医療器具”の展示。
年季の入ったアンティークから、最先端の医療器具まで。
アンティークとはいえ、その技術的に圧倒するものもあり、眺めているとそこに沁み込んだ感情が読み取れる気がした。
患者の苦痛や治療への希望、医師の治療の成功や技術向上――
それ以外にも、義手や義足も。
その時代において最新の技術・素材を投入し、使いやすさ、自然に動くよう設計され、見た目も生身に近くなるよう改良されてゆく。造形美にも感嘆された。
古典芸術、写本の挿絵、版画、彫刻…西洋に限らず東洋の写本のものまで。古今東西あらゆる分野における医学に関わる芸術的なものが一堂に会した展覧会だった。
ヨーロッパの時代毎に見ても面白い。
16世紀の宗教と科学の狭間で模索しながらの探究心、17~18世紀のペスト流行による死への畏怖と科学発展への展望とそこから派生した科学万能を謳歌する時代、19世紀の技術革新からの延命への情景、20世紀は“脳死”による死の定義の曖昧さと遺伝子操作への展望と懸念…
こう言葉を並べると、想う。
死を意識する時、人間の活力が沸きあがる事もある。
厭世観だけではあるまい。
この展覧会はそういうものを喚起するものだった。