レオナルド×ミケランジェロ展
公式サイト:
http://mimt.jp/lemi/
東京・丸の内 三菱一号館美術館( http://mimt.jp/ )にて。
~2017/9/24まで。
入ってすぐの所に今回の目玉作品、レオナルド・ダ・ヴィンチ《少女の頭部/〈岩窟の聖母〉の天使のための習作》とミケランジェロ・ブオナローティ《〈レダと白鳥〉の頭部のための習作》が、各々の肖像画と共に並べられている。
胸が熱くなる。
筆跡から、巨匠がどんな風に筆を走らせたのか想像してしまうから。
“万能人”レオナルドと“神のごとき”ミケランジェロが、この絵に込めた試行錯誤と集中力を垣間見るようで……
それにしても、赤く染めた紙に赤いチョークで描かれていたのは何故だろう?
ちょっと調べて分かったことは、‘フィレンツェ では赤チョークが好まれ、 青い紙はヴェネツィアで多く用いられる、といった地域差(※1)’があったという事だけだった。
…… フィレンツェとヴェネツィアのアイデンティティとしての色だったのだろうか?
《レダと白鳥》
展示されている二人の作品が、会場の中で対を成すように思えた。
それはこの二人の巨匠が全く異なる視点から芸術を捉えていたため。
理性を用いて究極の美(理想)を探求したレオナルド。
感情を劇的に表現することで人間本来の姿(現実)を捉えようとしたミケランジェロ。
ラファエロ《アテネの学堂》では、その顔がプラトンとアリストテレスにあてられている二人。
二人の巨匠の表現方法を、古代の哲学(イデアという理想があると説いたプラトンと、それを否定したアリストテレス)に照らし合わせる、ラファエロも博学だと思った。
素描や諸々の資料からもそれが理解できるが、それを如実に表しているのが、2人の巨匠が挑んだ同主題『レダと白鳥』だろう。
2012年に催されていたレオナルド・ダ・ヴィンチ美の理想でも、この主題は参考作品として展示されていた。(今回展示されていたものとは違う画家の手によるものだった)
伝統的な構図ながら女性的な曲線美を強調するS字型に立つレダを描くレオナルドのものと、身体を丸めることで曲線美を強調するミケランジェロの作品。私はレオナルドの女性像が好きだが、この絵はミケランジェロの方が斬新な構図で、好きだ。
絵画か、彫刻か――
芸術の捉え方も、その表現方法も異なる二人。
画家であったレオナルドと、(本来は)彫刻家であったミケランジェロ。
この違い、例のデッサンにも表れている。
レオナルドが(左利きだったため)左上から右下に線を引き、その密度で濃淡、明暗を表現している。
対して、ミケランジェロは師匠であるドメニコ・ギルランダイオのデッサンのやり方を踏襲し、クロスハッチングという線を重ね合わせる技法を用い、直線だけでなく人体の丸みや凹みに沿わせて線を曲線にし、立体感を強調している。(※2)
当時、彫刻と絵画のどちらがより優れた芸術であるかを論じ合う、比較芸術論争(パラゴーネ。イタリア語で比較の意)が起こっており、当時の人々は彫刻の方が優位であると考えていた。
彫刻は立体であり制作には労力がいること、素材は大理石など耐久性があり、経年劣化に強いため、という理由だった。
一方、絵画は彫刻と比べ工数がかからず、彫刻の下絵のようなもの、という認識だったように、私は記憶している。
当時はまだヨーロッパでも芸術家の地位は低く、画家は彫刻家よりも低かった。
これもうろ覚えなのだが、確かレオナルドは画家の地位向上の布石として『絵画論』を書いたのではなかったか?
会場の壁面の所々には、レオナルドとミケランジェロの比較芸術論争についての見解がちりばめられていた。
絵画と彫刻のレオナルドの挑戦的な発言に対し、やんわりと大人な対応をかえすミケランジェロ……
イメージでは逆だったのだが。
一説では、レオナルドとミケランジェロは不仲だったともいわれている。
レオナルドは『絵画論』の文章に「絵画は優雅だが、彫刻家は汚い労働者のようだ」とあったため、それがミケランジェロの癇に障った(※3)とか、レオナルドからダンテについて意見を求められた時、ミケランジェロは 馬鹿にされたと思った(※4)から等、色々あるようだが……
とはいえ、互いの才能を認めていなかった訳ではないようだ。
両巨匠がフィレンツェにいた時(1503~1505)、ミケランジェロはレオナルド《聖アンナと聖母子》における三角形の安定構造と流れるような視線の導線に感心し、レオナルドはミケランジェロ《ダヴィデ》を見て、その構造を研究するように素描を残したらしい。
その延長であろう、レオナルド《ヘラクレス》の素描には、ミケランジェロ《ダヴィデ》の影響を受けた力強い筋肉描写は、今までのレオナルドとはちょっと違う作風に思える。筋骨隆々。ムキムキ。
素描
そんな二人が唯一、共通認識をしていたであろう、素描、その大切さ。
その観点からも、素描展は重要なものに思う。
レオナルドは馬を一頭所有していたよう(※5)だし、沢山の馬の素描を遺している。
この展覧会でもレオナルドの馬の脚の素描が多数展示されていた。
当時の馬は貴重品で、今でいう高級外車(それこそフェラーリ?)みたいなものだった。レオナルド、それを所有できたのか……!?
馬の素描の数の多さから、学生の頃に教授から「レオナルドはかなりの馬好きだったのではないか?」と言っていた。……高級外車マニア?
ミケランジェロも馬の脚の素描を描いており、そちらも展示されていた。ミケランジェロは馬を所有していたのだろうか?
教授からは「(レオナルドは)馬は貴族の所有物であることが多かったので、見せてもらっていたのではないか?」と聞いた気がする……
ミケランジェロもまた、貴族から馬を見せてもらえる機会はあっただろう。
こんなにも偉人たちの息遣いがリアルに聴こえてくるのは、それを記録した文献が今も残っているため。
レオナルド手稿、ミケランジェロの手紙、そしてジョルジョ・ヴァザーリ『芸術家列伝』。
それら文献の翻訳に目を通すと、レオナルドやミケランジェロをはじめ、国際都市であったフィレンツェに集った才人達のエネルギッシュで大らかなエピソードに、読んでいてワクワクさせられる。
そのワクワク感は時代を超えて、日本のマンガにもなっている……みのる『神のごときミケランジェロさん』は(作者の愛あふれるミケランジェロへの独断と偏見を)今様に表現していて、面白かった。
それにしても、何年か前にレオナルドの真筆とされた《美しき姫君》(※6)が出品中止とされたのは残念な話で……個人蔵ゆえ、致し方無いのかも知れないが……
その美術収集家が絵から感じ取ったという、ただならぬ気配を私も感じてみたかった。
完成作品ではない素描を見るという事。
天才たちの試行錯誤を知る・学ぶ良い機会である。
素描の参考作品として、有名すぎるレオナルド手稿のファクシミリ版も展示されていた。本物ではないが、精巧に再現された原寸大の複製品は、貴重な資料を傷めずに研究への貢献や、今回の素描展ではレオナルドの考えとその時代を補完してくれる。
- 石鍋 真澄 『フィレンツェ・ルネサンスの素描』 成城大学大学院文学研究科-紀要-美學美術史論集【第18輯】2010年3月 発行 p.68
- 古山 浩一『ミケランジェロとヴァザーリ』芸術新聞社 2014 p.46
- 同上『ミケランジェロとヴァザーリ』 p.42
- 前橋重二「想像力の人レオナルド vs.感受性の人ミケランジェロ 時空を超える素描対決!」芸術新潮 2017年 08 月号
- ジョルジョ・ヴァザーリ『芸術家列伝3 ― レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ』
- 《美しき姫君》レオナルド・ダ・ヴィンチ|MUSEY[ミュージー]
http://musey.net/1756 (2017/8/1 確認)