睡蓮
睡蓮が咲いている。
以前の日記『牡丹と薔薇と』の続き。
購入した版画はグランヴィル《シスター睡蓮》だった。
タクシル・ドロール『花の幻想』の挿し絵。
グランヴィルは昨年、練馬区美術館で展覧会があった。行かなかった事が悔やまれる。
《シスター睡蓮》の清楚で輪とした睡蓮の擬人像に魅せられた。
足元の蛾に表現された悪魔の貢ぎ物を気にも留めない。侵しがたく不動な姿勢。何か道徳的な寓話だろうか?
これが何を表すのか知りたく、早速『花の幻想』の翻訳書を読んでみた。
花の妖精の庭の花々が人間の世界に憧れ、妖精の反対を押しきり、人間に姿を変えて生活を始めるという花々の冒険物語だ。
この挿し絵の『シスター睡蓮』のあらすじは、悪魔が修道院の前を通りかかると、一人の美しく物静かな修道女に目が止まる。悪魔は夢魔や情愛、あらゆる手段でこの修道女を誘惑するが、彼女には何一つ効果が無かった――
その修道女は睡蓮の花だった。彼女は人の世に出てはみたものの、愛することも愛されることもできず、修道院しか行き場が無かったという……
何とも冷淡な物語である。私が美徳のように感じたものはそうではなかった。
翻訳書には‘徳がひとつもないことがひとつの徳と見なされた’とあった。
『花の幻想』は当時のヨーロッパ社会の風刺でもある。これも形骸化した修道会への皮肉かも知れない。
巻末の、物語の元になっている花言葉(『詩人ジャコブスと花言葉ね物語』より)の一覧によると
睡蓮(黄)冷却,冷めた愛 (白)雄弁
時代によって花言葉は変化するが、欧州では黄色い花にネガティブなものが多い。
これは黄色がキリストを裏切ったユダの衣の色であったと言われるためだ。
だが黄色は金を連想させ、東洋では位の高い人間が身に付けたりする。
この版画を買ったのは、もう1つ理由がある。
以前買ったフランスのアンティークのショップカードが、睡蓮を擬人化したものが描かれていたためだ。これはデパートのショップカードなのだが。
それとの比較としても購入。
(この時代のショップカードは、宣伝内容に囚われず、絵画的なものも多い。それについてここでは言及しないでおこう。)
ここに描かれた睡蓮は黄色い……この場合は花言葉は関係ないのだろうか。
最も、前述の花言葉は今はもう変わっていると思う。
印象派の画家・モネが愛し描き続けた花。
睡蓮の花は咲くと夜に閉じ、翌朝また開く。この習性から古代エジプトの人々は睡蓮を“復活の象徴"と見なし、上下エジプトの紋様に取り入れられた。
神秘の花だ。神秘の花だ。それを考えると今の花言葉の方が馴染む。
不思議と、この2枚の絵とも合うのではないだろうか。
今、調度見ごろだろう。