映画『聖なる呼吸 ヨガのルーツに出会う旅』感想
公式サイト:
http://www.uplink.co.jp/seinaru/(日本語 2016.9.15確認)
http://www.breathofthegods.com/ (English 2016.9.15確認)
ヨーガの映画――
ジャンルとしても今まで見たことが無かったこと、映画でどのように表現されるかが気になり、観に行った。
ヨーガについての本を読むと「近代ヨーガの父」クリシュナマチャリア師について、必ずその名が現れる。
彼の軌跡やそのヨーガ哲学の片鱗を求めて、鑑賞。
映画の当初の視点は、ヨーガ哲学についての探求よりも先に、身体芸術と解釈しているようだった。
欧米でのヨーガブーム、スティーブ・ジョブズをはじめアメリカのセレブリティに注目されているマインドフルネスの一種としてではなく。
また、エクササイズとしてでもなかった。
身体芸術としての描写はバレエなどの舞台芸術の表現と似ていた。
それは19世紀の欧州で、ヨーガが曲芸と認識されていたことにも端を発しているようだった。
無声映画のモノクロの章立てとヨーロッパ音楽とともに、当時のヨギー(ヨーガをする人)による、上級アーサナ(ヨーガのポーズ)の映像が流れる。 “超人技”としてのヨーガだった。
それは確かに、世界的にヨーガが認識される前のステレオタイプとなったイメージだ。
それに共鳴するかのように、ヨーガ道場に響く少年によるマントラの詠唱のシーンは、はまるで天使の歌声と形容されるウィーン少年合唱団との対比、オマージュのようだった。
欧米の文化の尺度を“入り口”としヨーガに触れる――
それらを見ていると、禅を通して瞑想や思想に少しだけ共通項がある日本とは異なり、欧州にとってヨーガは本当に“異文化”なのだと思った。
クリシュナマシャリア師の直弟子や子孫らへの取材、縁のある南インドの地を巡りそこに住まう人々との触れ合いも含め、近代ヨーガの歴史を紐解いて行く。
インド国内ですら、20世紀初頭はヨーガに対する偏見があったこと(世捨て人、精神病患者がするもの)、クリシュナマシャリア師はそれらを払拭し、修行者だけでなく、人々に、老若男女問わず門戸を開きヨーガを伝えたという。「女性にも」というところに、前衛的な考えを持った方だったのだろうと思った。
弟子であるK.パタビジョイス師とB.K.S.アイアンガー師からはアーサナを指導する師として厳しい面や、インド哲学・古典に精通する学者、教育者として、ヨーガを探求・模索していくクリシュナマシャリア師の姿が垣間見える。
それに連動するように、監督のヨーガのルーツを探る、南インドの旅が進行してゆく。
私が興味深いと思ったのは、映画の中に映し出させる現代の南インドの風景は、インドの日常風景だったこと。
よくあるオリエンタリスム、エキゾチシズムの視点からのインドの情景ではなかった。
それらは美しくトリミング(先回りしてカメラがスタンバイしてるとか、カメラワークのこと)されてはいるものの、「今」のインドの姿を写していると思った。
幻想も神秘の世界もない。
それらがあるのは、ヨーガを行う人の心の内だ。
インタビューやインドの風景の合間に、ヨーガの道場でアーサナを実践する監督の姿が映し出される。
かつての曲芸、超人技としてのヨーガはなく、クリシュナマシャリア師が探求・模索した連動した動きと呼吸が合わせ“集中”する訓練。
日本の禅にある「静」の瞑想ではなく、「動」の瞑想。
窓が開け放たれた薄暗いヨーガの道場。
外から聞こえるクラクションやエンジン音に、現代の、そして現実社会の渋滞しているインドの道路を思い浮かべなくもない。
だが、道場の内部はその喧騒から隔絶され、ヨーガを実践する人の呼吸音と動作に意識を集中させる。
それはヨーガを実践する人の、自分という存在が「今、ここ」にある存在である不動さを強くする。
この感覚は、私もヨーガを体験しているから、共感、想起されるものなのかも知れない。
アーサナ、呼吸法といった身体的・精神的な集中を促すものを学ぶに留まらず、ヨーガは人間的な知性の面を学ぶきっかけになる。
クリシュナマチャリア師の次女・アラメール曰く「父は教育を財産だと考えました。知識は財産であり宝です。そのため、父はどんな人にも学びを勧めていました。知識は誰にも奪えません。金銭などの物質は盗まれても、知識は教えない限り他者にはわたりません。(※1)」という言葉に、学ぶという事の本質的な輝きを再発見する。
四千年の歴史があると言われるヨーガ。
しかし、今、世界で知られているヨーガは、実は体系化されて100年程の歴史しかない。
それを成した人が、クリシュナマシャリア師なのだが……それより前のヨーガとは何だったのか?
クリシュナマシャリア師の子孫らの話から、『マハーバーラタ』などインド哲学、マントラを伴うアーサナなど、古代から連綿と受け継がれたものは確かにあるのだが……?
監督は関係者へのインタビューや自身のヨーガ体験と平行してそのルーツを探るが、史実としての根源的なもの(開祖のような特定の人物)は見いだせなかった。
最後に、ヒンドゥー教の寺院で座禅を組み呼吸する神の姿を見いだす。
神の息吹――ヒンドゥー教信者ではないため入れない寺院の入り口――神話世界の入り口に立って、原題である"Breath of the Gods"に邂逅する。
ヨーガのルーツには神が在った。
その神は欧州的な天に在る唯一絶対神ではない。神は人の心の内にあり、他人がむやみに立ち入って良いものではなく、自身の探求(ここではヨーガ)により見出されるものである――
その入り口に立って終わる映画だった。
上映前にトークショーがあった。
日本でのアイアンガー・ヨガの第一人者・柳生直子氏。
アイアンガー師に直接師事を受けた方。
柳生氏は日本でヨーガの認知度が低かった1980年代に単身インドに赴いたそう。
アイアンガー師は当時、60代だったそうだが、柳生氏は「40代のように見えた」という。
それだけアイアンガー師が精神的にも充実していた時期に、ヨーガを教えてもらったとの事。それは羨ましい……
当時のヨーガ道場でのレッスン風景の写真も見せて頂けた。
現代とは異なる、レオタード姿でのアーサナに会場では笑いが。(現在のアメリカンなヨーガ・スタイルでも、インドのサリーをまとっての練習風景でもなかった事に驚く。)
当時は今のようなヨガマットではなく、スティッキーマットを使っていたとか……
道場の雰囲気は厳しかったそう……
アイアンガー・ヨガでは一つのアーサナを長い時間キープするため、支柱や道具を使うものもある。肩立ちのポーズのための革ベルト、アライメントを整える(身体のゆがみをとる)ためのトレスラー(ホース)という器具をアイアンガー師は考案し、それを用いて指導していた模様。
クリシュナマチャリア師とアイアンガー師の関係についても少しもお話しされていた。
映画の中でもアイアンガー師は「(クリシュナマシャリア師から)全く学ばせてくれなかった」と歯に衣着せぬ発言をしていた。
クリシュナマチャリア師がヨガ指導者としてマイソール藩王に仕えていた際、まだ何も教えてもらっていない状態でマイソール宮殿で実演したこと、それに関連して作中でもモノクロの映像でヨギー、ヨギーニ(ヨーガをする男女)が舞台上で披露している様子があった。
柳生氏はアイアンガー師が「自分が見世物のように感じられあまり快く思っていなかったと仰っていました。」と言う。
それでも(それ故か?)クリシュナマシャリア師のもう一人の弟子であるパタビジョイス師が伝統的なヨガを深めて“51のポーズ”を受け継ぎ、アイアンガー師は“51のポーズ”ができない人のためにプロップス(道具)を考案し、老若男女ができるようなヨガを考案したことを強調した。(※2)
柳生氏はアイアンガー師も「自分は一ヨギー(グル(導師)ではない)である」と語っていた事をふまえ、クリシュナマシャリア師と同じように常にヨーガを探求されていたのだろうと回想されていた。
クリシュナマチャリア師とその一門の功績を称え、今ヨーガを学んでいる人たちへ、心身のバランスを整えられるヨーガをこれからも楽しく、一生続けて欲しいとメッセージを送られ、閉会した。
- 映画『聖なる呼吸 ヨガのルーツに出会う旅』パンフレット
- 「80年代はレオタードでヨガ?!アイアンガーの直弟子が語る、世界中で愛されるヨガのルーツ」ゲスト柳生直子さん
https://www.facebook.com/notes/1728263040771072 (2016.9.15確認)