ベルギー幻想美術館
http://www.bunkamura.co.jp/museum/lineup/09_belgium/index.html
私には珍しく、開催後直ぐの展覧会鑑賞…
今回の展覧会は、姫路市美術館のベルギー美術コレクションからのものだった。
姫路市美術館
http://www.city.himeji.lg.jp/art/
毎回の事ながら、展覧会のイメージに合わせた会場のヴィジョンも気になる所。今回はエロティシズムを連想させるジョギングピンクのライト、赤みのある紫のイメージカラーで統一された会場。
紫色の濃淡がカテゴリー毎に異なっていた。
気になる作品についての感想。
第1章 世紀末の幻想 象徴主義の画家たち
この章で私が一番気になっていた画家がジャン・テルヴィルだった。
象徴主義画家の代表格。
《ジャン・テルヴィル夫人の肖像》
ブルイーヌと呼ばれるクレヨンのような青い顔料のみで描いた作品。
言わずもがな、青は知識・叡知・高貴の象徴。そして‘テルヴィルは青を信仰の象徴であり、天上の色である’と考えたとの事。
スミレ系の花だろうか?
手に持ったそれに接吻する女性像。
‘肖像画というよりも、女性の永遠の理想美を表現したものと思われる’というこの作品。
永遠の理想美の女性となった夫人をふと羨ましく思ってしまった。
《レテ河の水を飲むダンテ》
ダンテ『神曲』のシーンを描いたもの。
ルネサンス以降、『神曲』を絵画化した作品は数多あるが、このように明るい油彩画を見たのは初めてかも知れない。
よく絵画化されるのが、煉獄・地獄篇の情景であるためかも知れないが…
画家が独自に構成しており、‘原作ではマチルダに頭から河に漬けられたとなっているが、この作品ではマチルダの手から水を飲んでいるように描かれている。’ダンテの口元に差し出されたマチルダの手と、花を持ち、マチルダの面前に突き出された手の対比と繋がりが印象的な絵画だった。
楽園の如き色とりどりの花々は、カタログにも指摘されていたがアールヌーヴォーの影響を感じさせた。
ダンテ『神曲』については思うことが多々あるので、改めて書きたい。
テルヴィル以外の象徴主義作家の作品も数点あった。
ジョルジュ・ミンヌ《墓所に立てる三人の聖女》
木製の彫刻。三人の聖女は殆ど同じ姿をし、顔はフードにすっぽりと覆われているので、個性が無い。
木霊の如きその姿。
ギリシア神話の運命の女神であるモイライ三姉妹、あるいはシェイクスピア『マクベス』に現れる三人の魔女を思い出させた。
第2章 魔性の系譜 フェリシアン・ロップス
Bunkamuraザ・ミュージアムでの展覧会では、度々ベルギー象徴主義絵画が取り上げられた。(ベルギー象徴派展/2005年,ベルギー王立美術館展/2006年)その際にも作品が何点か展示されていた。
再びフェリシアン・ロップスの作品を見る事が出来た。
展示されていたものは主に本の挿絵のもの、エッチング。
悪魔的エロティシズムの作品は、当時斬新なものであった。
《プリアボスの神の技》
書籍に掲載されて、惹かれた作品。エッチングなので度々拝見したことがあるのだが、何度見てもその冒涜的な構図に圧倒される。
《スフィンクス》
カラーではないほうが展示されていた。レズビアンを匂わせる、スフィンクスに寄り添う女性。
《サテュロスを抱く裸の若い女性(パンへの賛美)》
サテュロスも牧歌的というよりはインキュバスのようである。
ロップスが描く女性達は肉欲の倒錯の中にいる。
何処か強い女のイメージがある彼女達に、私は畏怖と同時に嫌悪感を抱く。
私はテルヴィルが描く女性達が好みなのだ。
参考:http://art.pro.tok2.com/R/Rops/Rops.htm
第3章 幻視者の独白
宗教的モティーフを扱いながらも、画家独自の解釈がされた‘その作品は、中世末期にヒエロニムス・ボスが描いた魑魅魍魎の世界を彷彿させる’作品。極彩色の仮面と奇妙な表情をした人物の洪水は、見ている人間をその細部に惹き込んでしまう。
キリストの生涯とマリア昇天の物語を描いた連作。
アンソールはキリスト教モティーフを取り入れたものを多く描いたが、朱色に近い赤で描かれたそれは、従来のそれに捕らわれていない。
参考:http://art.pro.tok2.com/Twenty/Ensor/ensor.htm
第4章 超現実の戯れ ルネ・マグリット
シュルレアリスム――それらもまとめて幻想美術の一環になるのか。
昨今のCG表現など拙いものの様に感じてしまう。筆致を残さないマグリットの描写を見ていると。
コラージュ表現でもある彼の作品には、見習うべきものがあった。
相反する2つの構成要素だけで、新たな世界が完成されている。
または、連想。
帽子の上に頭があったり、耳とベルの組み合わせでタイトルが《音楽》
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連想がユーモアを伴って、私達の日常を驚きに変えてしまう。
元は壁画であるという《マグリットの捨て子たち》の連作はマグリットらしい連想がループされる世界。
眺めていると楽しい。
騙し絵のようなものもあるので。
第5章 優美な白昼夢 ポール・デルヴォー
デルヴォーの作品をこれだけ多数見たのは初めてだった。
デルヴォーの描く女性像は静的で、かといって彫刻の様でも無い。まるで女性の人体模型のような印象を受けた。
デルヴォーが描く女性の原点は、機械仕掛けの裸体の人体模型であったという。
クロード・スパーク『鏡の国』のための連作
「最後の美しい日々」より
《死んだ女》
ベルギーの作家クロード・スパークの短編のための挿絵。
死んだばかりの女の、眠るような静的な描写が印象的でもあった。
「最後の美しい日々」あらすじ
ジュールとマリーは子どものいない長年連れ添った夫婦。この物語は、夕食の準備中の食卓の場面から始まる。マリーは台所からお皿を持って来て、テーブルに置こうとして倒れて死んでしまうのである。
管理人が全ての世話をしてくれ、死んだ彼女をベッドに寝かせた。若くして結婚したジュールは一人で暮らしたことがなかった。彼は人生を他の女性と過すことを想像する事はできなかった。
ジュールは動物を剥製にするのを仕事としていたガスパールに助けを求めるため、動物の骨が陳列され、棚の上に薬瓶や蒸留器が置かれている彼の実験室を訪ねた。マリーを剥製にしてほしいという申し出をガスパールは大喜びで承諾した。
(中略)
人生は再び歩みを始めた。会社から帰宅するとき、ジュールは誰かが待っていると感じた。しかし誰もがそうであるようにジュールも年をとり、一方マリーは若返っていったのである。目前で見ている女性は日に日に美しくなり、ジュールはもう自分の妻と認めることができなかった。ある晩、彼はもう耐えられなくなり、彼女を殺し、台所のナイフで細切れににしてしまう…。Poul Delvaux,Musee Royaux de Beaux-Arts de Belgique, 1996, P.261より抜粋
『ベルギー幻想美術館 マグリットとデルヴォー 版画の世界』より引用
剥製になった女性の物語とと人体模型から着想を得た女性像を描くデルヴォー。
挿絵を描くのは適任だったのではなかろうか。
出版されなかったのが惜しい。
この話を目にした時、1926年、第一次世界大戦直後のアメリカ、フロリダ州。自分の恋人・エレナを死後9年間も防腐処理して保存してた医師の話を思い出した。
作家はこの話から着想を得たのだろうか。
ジュールはマリーを殺して(壊して)しまうが、エレナの話では、防腐処置が充分でなかったため、腐敗するエレナの美貌を留めるためか、人形も作っていたという。
どちらの愛も極みだと思った。
《海は近い》
宣伝チラシに使われていたもの。
これは完全に彼の理想郷を描写したものであった。
立ち尽くす裸婦、古代風の建築物、避暑地の海の情景――
度々思うことだが、幻想は現実逃避では無い。
現実での抑圧であれ、そうして滞ってしまった生きる力を得るために必要なものだ。
性的な衝動か、或いは怒りか、理想か、当人の現実か――
画家たちはそのエネルギーを以て自己表現を成功させた人々だ。
私はそれを見ることで、同じように活力を得る。