映画『アリータ:バトル・エンジェル』感想 ――強調される、身体性
公式サイト:
http://www.foxmovies-jp.com/alitabattleangel/
原作がそうなので、この映画もガジェットSFだが、身体性を意識させる映画として昇華されていた。
物語の感想というよりは、身体性についての考察。
目
映画宣伝のポスターでも、目を強調したアングルの宣伝が多かった。その際立った特徴。
不気味の壁のようなものかと思ったが、見ているうちに払拭される。
原作に忠実に再現されている訳だが、もっと異なる意図があるように思えた。
その大きな目だからこそ、幼さ、少女性が際立つ。
身体性
少女――球体間接人形
アリータが当初与えられる、エングレービングが施された白いボディは、球体関節人形のような白く線の細い身体。
エキゾチックな紋様が施された、神秘的なものだ。
元はアリータを拾った医師・イドの亡くなった車椅子の娘のためのものだったためか、非常にか弱く少女的なものだった。
四谷シモン、天野可淡ら……最近のものではスーパードルフィーなどを想像すれば良いだろうか?
球体関節人形の可動性を持たせる関節の切れ目は、そこから解体できることを強調し、脆さ、儚さを暗示させる。
また、この可動性は(モーターとか、内部に仕込んでいないこと前提にすると)外からの力によって動く。
そこに介助を必要とした少女の面影、あるいは親の庇護を必要とする子供のイメージがある。
戦闘に向いたものではなかったため、敵役・グリシュカに破壊される。
成熟した女性――バーサーカーボディ
300年前の地球と宇宙戦闘艇で導かれるように発見したバーサーカーボディ。アリータのためにある身体だった。
ボディだけの状態だと男性的な身体つきをしていたものが、アリータの頭部を付けると彼女の身体に合うように女性的に変化する……
両性具有的な表現にも惹かれた。
元々、原作『銃夢』で主人公の名前はガリィ。
ただ、英語圏での商業展開の際に"gully(雨裂)"になること、男性的な響きの名前であるため、“アリータ”に変更されたという。(※)
そういう点では、本来の両性具有的な意味合いが暗示されているようで、私は納得してしまった。
バーサーカーボディを得たアリータの力強くしなやかな動きは新体操そのもので、身体の筋力の強さ、柔軟さを見せる。
球体間接人形の、動くこととはまた違う感動があった。
球体間接の身体はイドの娘(私ではない誰か)の身体であり、アリータ自身ではない。それがようやく本来の身体(自己の主体性)を獲得する。主体性の獲得のヴィジュアル化とも解釈できる。
これをアリータの少女から大人の女性への変化ともとれる。未熟でか弱い少女が、イド(保護者)の庇護から離れる、成長の瞬間だった。
敵役の“身体性”
もう一つ興味深いのは、アリータの敵役たち。
典型的な
アリータとイドが冒頭で遭遇する、チャッキーのような顔の男、蜘蛛女など。人間というよりはバイクのような形をなった極端な者もいるが。彼らは総じて身体の一部が強調されている。
彼らの改造や一部部位の強調は、現実世界にも見られる。タトゥーや極端な例では人体改造(舌を蛇のそれのように整形する事例)など。広義には美容整形も含められるかも知れない。
ハンター・ウォリアー(治安維持を名目とした賞金稼ぎ)のライバルであるザパンのサイボーグの背中にある意匠はタトゥーにありそうな柄だった。
それは変身願望に自己実現だ。
自信があることを強調、誇張すること、相手に見せたい自分、劣等感のある部位を切り離す、なりたい自分になる……そういった個々人の様々な感情を実体化させる行為と言える。
そう考えると、悪役の個性が垣間見えてくる。
体術
アリータは闘争を通して過去の記憶がフラッシュバックし、 機甲術(パンツァークンスト)と呼ばれる体術を体得していた戦士だったことを知る。
その動きにヨーガ、合気道、アジア圏の武術を想起する。
体術に相手の急所を的確に突くイメージを抱く。短絡的に、それを実行できるのは自分の意思で身体をを制御する術を心得ているからと考える。
身体をコントロールできることを、私はかつて、意思によって身体を制御しているからと考えていた。その極みが体術だと。
そのイメージを、『銃夢』然りマンガやアニメを通して多くの人は共有していたように、私は思う。
究極的に研ぎ澄ませれば、身体の苦痛や限界を超えられるのではないか、そもそも超えられる身体さえあれば己の志は実現できるのではないか、と。
到底生身にはありえない様相を見せて読者の潜在的な願望を満たす。手足の損傷は意に介さず、上半身だけになっても攻撃をやめないその闘争の意思は、私たちが常に願う、意識の身体への優先を映像化したものと言える。幾重にも保護された脳だけが自己でほかの身体部分はすべて「乗り物」という場合、彼は脳以外の身体損傷を恐れる必要がなくなる。そして意志のために身体を犠牲にできる者には、かつてヘーゲルが『精神現象学』で告げた死を恐れない「主人」の特性が見え始める。
それは超越の映像化なのだ。またそれは生身の身体の呪縛から解放されることへの夢とも言える。高原英理『ゴシックハート』2004 p.96
唯脳論
『銃夢』が描かれた90年代頃まで、人体の解釈は脳が司令塔でありトップダウン形式で他の臓器に指令を送っているものと解釈されていた。
SFの世界でも「脳さえ維持できれば人間は半永久的生きる」あるいは「ハイスペックなボディに変換し生身の人間を凌駕する兵士を生み出す」……という設定は枚挙にいとまが無い。士郎正宗『攻殻機動隊』もその一つだ。
だが、現代の医学は懐疑的になっている模様。
昨年のNHKスペシャル シリーズ「人体」では、メッセージ物質と呼ばれるタンパク質を介して、臓器は相互に影響しあっていることが取り上げられていた。
……つまり人間は、脳だけで物理的に生きられても、脳以外の臓器からの刺激やメッセージ物質が無いと“生きられない”のではないか?
アリータのボディの換装は、漫画やアニメでは意志の身体の超越を意識させたが、この実写映画では意味が転じたように思えた。CGで再現されたリアリティを伴い、身体の重要性、必要性を強調しているようだった。
身体の必要性
『アリータ』における身体は『銃夢』のものとは真逆の価値観のように思える。
義体のモノ化(取り換えがきく身体)ではなく、少女の成長を暗示させ、滑らかな動きで生身以上に身体の存在感を映像で強調しているようだった。
体術もまた、身体を鍛えることで己と向き合い、心身を整える要素のひとつとも考えられる。
押井守『ひとまず、信じない』でも、空手をするようになって、身体が心に影響を与えることを実感した旨を語っている。
僕の若いころは、人間にとって一番大事なものは意識であり、首から上だけが重要だと思っていた。だから、究極に深化した人間は、自己を決定付けるものとしては脳だけがあって、体は機会に置き換えることが理想のようにも思っていた。
その究極の形が『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』現れる登場人物たちである。ただ、作品ではその意識ですら自分のものであるのかどうかがあいまいになっていく。機会に置き換わった自分とは何者かという思いテーマに向き合うことになった。
だが、空手を始めて、肉体を鍛えることを知ってからは、肉体こそが意識をコントロールしていることを感じるようになった。押井守『ひとまず、信じない – 情報氾濫時代の生き方』2017 p.37
それは自己の回復、ではなかろうか?
アリータはイドに発見された当初、自分の名前も、何者かもわからずにいた。
与えられた白い義体から、本来のバーサーカーボディを得て、本来自分が目指していたことを思い出す。
前述の『ゴシック・ハート』において、『銃夢』『攻殻機動隊』人体改造やサイボーグ化が、肉体の限界という呪縛を超越という羨望があることを指摘していた。それは巡り巡って身体への情景に立ち返る。
それが90年代と2010年代の時代の変化だと実感する。
思えばジェームズ・キャメロン監督作品でも『ターミネーター』シリーズは、機械の身体という生身の人間を“圧倒する”存在と対峙する。(最終的には生身の人間が勝利するが)
それが映画『アバター』では人造の生体を通して、戦争で負傷し下半身不随した兵士が活躍する。
『アバター』では身体を通し、五感で感じることに重点を置いた描写、それを通して主人公が生きる力を取り戻すような描写が多かった。
身体の必要性は食事の描写にもうかがえる。
90年代ごろの遠未来設定にありそうな、たとえば脳に必要な栄養素の摂取を栄養剤で行っているような描写は無く、人間らしく経口摂取によって、生のオレンジやチョコレートなどを食している。
“味覚”という、身体でしか感じることができない“五感”のイメージを刺激させられた。
単純に私たちが普段から目にして食べているものを描写することによって、鑑賞者が共感しやすくしているだけかもしれない。
その描写が必要なのは、ジブリ映画において食事の描写が生身の人間への生きることへの想起であるのと同じ描写だと、私は思った。
身体を維持し鍛えることで整えるという、生身の人間でも必要なことが強調されている。
都市の情景
押井守で思い出されたが、映画『攻殻機動隊』で“記憶の外部化”の延長として、映画『イノセンス』では「都市は巨大な外部記憶装置」として都市景観の描写に重点が置かれていた。
『アリータ』では、それがより分かりやすい形で表現されていたのではないだろうか?描写された都市景観は、調和した世界の街並みの闇鍋だった。
ヨーロッパの石造りと、トタン板で作られたスラムのような突貫工事、アジアのごみごみした街並みがさも当たり前のように混在している。
戦争のあとの突貫工事あるいは違法建築は、世界崩壊後の混乱とその爪痕を如実に物語る。それを当たり前として人々が存在している。彼らもまた、多種多様な人種が入り混じっていた。
人種の坩堝が都市景観として表現されていた。
細部のクオリティも徹底的に再現、独自解釈も含めて作り込まれていたし、良作だった!
しかし、若干時代に合わない?世界観だったかもしれない……SF的斬新さが無いという意味で。
当然だが、世界観がどうしても2000年以前のSF……
このクオリティで、あと5年、10年早ければ……そう思わずにはいられない。
あ、でも10年前は『アバター』だったか……
- 参考文献
- 【対談】押井守×最上和子『身体×義体の行方』前編 | 日本美学研究所
http://bigaku-labo.jp/190211/talk/oshii_mogami( 2019/4/27 確認 )