ライアン・マッギンレー BODY LOUD!
東京・オペラシティアートギャラリーにて。
http://www.operacity.jp/ag/exh187/
~2016/7/10まで。
RYAN McGINLEY
http://www.ryanmcginley.us/
http://ryanmcginley.tumblr.com/
コラージュの教室で一緒だった友人に誘われて観に行った。彼女は写真技術にも詳しいので、ご一緒して頂けて心強い。
技術的な視点からの見解に、私は新しい見方も得た。
ヌードの写真展。
モデルは一般の方々も起用しているという。
一般人をモデルにしたヌード、と言われて私が思い出すのは荒木 経惟だった。荒木氏の日常の赤裸々な心象風景を切り撮ったものとは異なり、文化や社会的なものを脱ぎ捨てた‘ありのままの自分’の姿を肯定するヌードだった。
全体の印象は、明るい色彩で重苦しい陰影表現の無い写真たち。
それは私が今まで見てきた写真家の写真とは異なる、軽快感あふれるものだった。
Cプリントによるカラー写真の中で、額装されているモノクロ写真群は私も好きなゼラチンシルバープリントだった。
こちらの方がシャープさが際立っているように思う。
陰影が強調されているわけではないが、フラットな光に全てを白日の下にさらけ出すような、透明感があった。
《Mari》
ふとした驚きの瞬間を撮影したような写真は、感情が写し出されているようで、惹かれた。
《Jessica & Anne Marie》
草原に横たわる裸婦。
ひとりは蛇を掲げ、傍らには犬。
象徴のようなそれらに、牧歌的なアルカディアよりも、私はダンテ『神曲』の浄罪界(煉獄)の入り口の光景を連想した。(※1)
一緒に行った撫子様の指摘で、それが夕方の薄暗い中で撮られたものと知る。
強く露出補正されており、よく見ると犬の目に赤目現象や全体に粒状感がある。
写真では被写体がはっきりとしているが、撮影された状況を想像すると、薄暗がりでよく見えないやっと人物輪郭が掴めるような朦朧とした世界だったと思う。
それは写真に写っていない神秘的な瞬間だっただろうか?
《Kaaterskill Falls》
自然の中で撮られた裸婦の凄さは言わずもがな!(撮るのは大変だったらしい)
氷窟や氷柱化した滝の傍にいる健康的な体躯の裸婦。
自然の中での人間の小ささよりも、それでも生きる力に溢れている讃歌だった。
《Deep Well》の安定した構図も素晴らしい。
まるで岩の間から生まれ出たような、立ち上がろうとしている裸婦。上昇する力と、対を成す滝の水が落ちる下方に向かう力が、画面の中央でぶつかる。
圧倒的な自然と見劣りしない生気溢れる肉体の美しさに魅せられる。
天井が高い開放的な空間の、壁一面を彩る人々ポートレート。その数の多さもあるが、写真のサイズも規格も、被写体の人種も性別も様々で、圧巻だった。
そして皆、魅力的だった。
タトゥーを施した人の、彫り込まれた自己表現にも想いを馳せる。
痩身も肥満体も筋肉質の人も、生き生きとした印象が伝わる。
溢れる自己肯定感――それに憧れを抱く。
素敵な展覧会だった。
書店でたまに手にとる雑誌『IMA』にも特集が組まれていたので、展覧会があることは知っていたが、私はモダンアートや写真の分野に疎い法なので、自分ひとりでは観に行けなかったと思う……
誘って頂けて本当に良かった。
どうでも良い蛇足:ヌードなのだが……男性の股間部分がうまくトリミングされ見えないようになっているのは、やっぱり配慮なのかな……(※2)
- ダンテ『神曲』の冒頭、詩聖ヴェルギリウスがダンテに語った、智と愛と力を糧にする猟犬ヴェルトロ。地獄から来た狼を追い詰め、地獄に落とす。
蛇は浄罪界にも現れる。天使たちが見回りをして追い払っているらしい。 - 愛知県美術館における鷹野隆大の作品展示について
http://www.ycassociates.co.jp/jp/information/aichi-takano/(2016/6/2確認)