エリック・サティとその時代展
公式サイト:
http://www.bunkamura.co.jp/museum/exhibition/15_satie/index.html
渋谷・Bunkamuraザ・ミュージアムにて。
~2015/8/30まで。
音楽家の展覧会、という試みは初めてかも知れない。
音楽とは即興であり、一時的な時間と空間でのみ存在する芸術表現である事は今も変わらないと思う。レコード、テープを経て、CDや記録媒体の技術が向上した現代であっても。
それをミュージアムという、固定された芸術、視覚に訴えるものが多いものを展示する空間で、どう伝えるのか気になった。
以前、何処かの資料館で譜面の展示を拝見した事があるが、音楽の知識がバイエル止まりの私には、理解出来なかったのだ。
もっと譜面を読める能力があれば良かったのだが……
貴重なものであるだけは解ったのだが。
また、宣伝に使われているマン・レイの言葉――
「眼を持った唯一の音楽家」
に、サティは、音楽を視覚的に表現しようとしたのかと想像した。
Bunkamuraでは、きっと参考資料の展示物としてだけではないと思い、足を運んだ。
会場には当然ながらサティの曲が流れていた。
展示されているものは、サティ直筆の譜面の他、サティが活躍した時代やキャバレー・ミュージックを象徴するものだった。
以下、私が気になった作品の感想。
カルロス・シュヴァ―ペ《薔薇十字展の小さなポスター》
サティが薔薇十字団と関係があったとは知らなんだ…
参考作品として出展されているポスターの神秘主義の様相と、私が持つモダンで詩的なサティの曲のイメージが結び付かなかったためだ。神秘主義者だったのか……
薔薇十字教団の最初の思想(1891)、『星たちの息子』への3つの前奏曲(1891)、薔薇十字教団のファンファーレ(1892)を作曲したという。
反ワーグナーだったという彼が、ワーグナー風を作っている。
何故、引き受けたのか、反ワーグナーであるが故に特長を捉える事ができたのか、それでもワーグナーに通じる精神をサティが有していたのか……色んな想像をした。
荘厳な曲というより、内省するような曲だった。
サティは神秘主義にそういうイメージを持っていたのだろうか?
会場内、『スポーツと気晴らし』というシャルル・マルタンによる挿絵(版画)付きの譜面集が展示された部屋で、30分の生演奏があった。
演奏は丹原要氏。氏による解説も交えてのミニコンサートだった。
サティは凄く短い曲が多いので、あっさりと沢山聞けて面白かった。
「え!?これで終わり!?(演奏1分も経ってない)」から、実はエンドレスの曲まで。
~プログラム~
アレグロ
グノシエンヌ第5番
『星の息子』への前奏曲より、第1曲
ピカデリー
「いやな気取り屋の3つのワルツ」全3曲
官僚的なソナチネ
『スポーツと気晴らし』より「序曲、食欲をそそらないコラール」、「タンゴ」
『スポーツと気晴らし』がこの聴きやすい曲のためか、耳について離れない……
特に『スポーツと気晴らし』の「タンゴ」は、会場を出るまでずっと頭の中でリピートされていた。
会場の最後に、この版画と譜面、曲の演奏とト書の朗読が、映像で同時進行で展開される。
私はフランス語読めないので、これはとても嬉しい。
それで作品の意図を垣間見る。
日常を切り取った、音楽というよりも詩的な作品群だった。
自然界の音をピアノで表現したような……ある意味、擬音というべきか。
展示の中には、サティが愛用した品々も展示されていた。
その中には、トレードマークの山高帽やステッキも展示。それらは当時として一般的な装束だと思っていたが、キャラクターのマネジメントを凄く意識していたようだった。そういえばダリもそうだったか。
現在では当たり前のように氾濫しているキャラクターのマネジメントは、この時代からだったのだろうか。
そしてマン・レイの作品。
黄金に輝く《眠れるミューズ》や、サティの曲『梨の形をした3つの小品』へのオマージュ作品《エリック・サティの梨》など。
洋梨にはヘソが描かれ、フォルムから女性性が際立って感じられた。
ポスターに使われている《エリック・サティの眼》は、マッチ箱にサティの眼と眼鏡の部分だけトリミングされたポートレートが貼り付けられている。
小作品ながらサティとわかるそれに、写真のトリミングの重要性や、「眼を持った唯一の音楽家」でサティを言い表せるという事に、アートの本領が発揮されていると思った。
ジャン・コクトーや、ピカソがキュビズムの衣装デザインをした事でも有名な舞台『パラード』
会場には資料映像も流れていた。
2007年に再現上演していたとは知らなかった……
写真でしか見たことが無かったキュビズムの衣装を着たダンサーが動いている踊っている
拝見出来て感無量。
伝統的な演出を打ち破り、タイプライターやピストルの音などを取り入れた音楽を取り入れた舞台に、賛否両論が巻き起こったという。
シンプルで抽象的な演出の先駆けだったと思う。
今のモダンなオペラの演出にも通じているのではないだろうか。
言わずもがな、サティは音楽家だけに留まらず、沢山の画家や詩人、写真家や美術家と交流し、相互に影響を与えながら創作に勤しんだのだろう。
サティが異端の音楽家となった所以だ。作風を多様にしたり、コラボをしたり、自由な創作活動を促した――アーティストの鏡というか、憧れだ。
フランシス・ピカビア《『本日休演』の楽譜の口絵》
サティ最後の作品となった、スウェーデンバレエ団の『本日休演』に提供した楽曲の楽譜の口絵には、タキシード姿のサティが「すべてを説明するという習慣をやめるのはいつになるのかね」と書かれたプレートを持っている。
『パラード』も『本日休演』も、美術界にスキャンダルを巻き起こしたというから、それに対する皮肉でありユーモアである。
同時に、これはサティの人柄をも表している作品なのかも知れない。
展覧会のタイトル通りで、サティの頭の中を垣間見る訳ではないが、音楽家をつうじて芸術家や時代の横の繋がりを明確にするものだった。