白隠展 HAKUIN 禅画に込めたメッセージ

白黒イラスト素材【シルエットAC】
JUGEMテーマ:展覧会
白隠展 HAKUIN 禅画に込めたメッセージ

渋谷・Bunkamura ザ・ミュージアムにて。
http://www.bunkamura.co.jp/museum/exhibition/12_hakuin/

今日までなので、書くのもどうかと思ったが…

最近、禅への関心も高まり…導入として見てみたいと思った。
日本美術、もとい絵を介して何か理解出来ればという思いと、宣伝の煙草を吹かす布袋や黒背景の達磨に惹かれたのがある。

個々の作品よりも全体的な感想になる。
“楽しめる”のだ。個々の顔立ちの面白さ、彩色然り、眺めているだけで飽きない。
よく見ると下書きを大きくはみ出し豪快に描いていたりと、大雑把な感じが、堅苦しくない。

絵として見た時、その巨大な紙面や大胆な発想――墨で紙を黒く塗りつぶしたり、独自解釈や神仏混合の禅画はあまりにも斬新で、圧倒される。
庶民にもいかに分かりやすく伝えるか、同時にそれが庶民への言祝ぎだったのでは、と思う。

壽の文字の多さよ。
福禄寿を囲む百書体の壽、お福の衣、あらゆる所に現れる。

白隠慧鶴《百寿福禄寿》

それは、もうひとつの書画《福壽海無量》にも通じる。
参考:禅語を楽しむ「福壽海無量」
http://www.daruma.or.jp/zen/detail.html?zen_id=36

画にある己を律し、他者への心意気を大切にする事への感嘆があった。

そういえば、自己鍛練する苦行をし、悟りを開いた僧は世捨て人でありながら庶民との関わりを絶つことないようだ。

最近読んだ、ベネディクト『菊と刀』にも日本の禅に関する言及があった。
菊と刀 (光文社古典新訳文庫)
第11章「鍛練」では、日本の禅はインドのヨーガ派と異なり、五感のシャットアウトではない。研ぎ澄ましている事を挙げていた。
菊と刀』でヨーガ派が解脱のために修行をし至る境地・無我を「観察する自己」が忘れ去られる状態。無我の状態では「それをしている感じ」がなくなる。と説明されていた。
日本の禅はそれに矛盾すると。

白隠慧鶴《蓮池観音》

感覚を研ぎ澄ますという点で、直結してしまう香道。
香道も禅と関係がある。
元々香木は仏教供養のためのものとして入ってきたのだから、それは至極当然と言える。
香道が武士のたしなみとなった時、禅の思想を取り入れて、香木そのものを焚くようになった。
繰り返す所作や感覚を研ぎ澄まし香りを聞く事。
それが鍛練であり、修行である。
その鍛練は日常にも通じる。繰り返す日々、繰り返す生活。それが苦行であり鍛練の場だ。
厭世ではなく自身の内・心次第で言祝ぎに溢れる。

私事だが、「福壽海無量」という言葉は高校を卒業する際に国語の先生が生徒に贈ってくれた言葉であった。長らくその意味を失念していたので、感慨深いものがあった。

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