阿修羅展
ようやく行ってきました。阿修羅展。
http://www.asahi.com/ashura/
興福寺は修学旅行でも見に行きましたが、がっかりした事を記憶している。
堂内部に安直されている訳でなく、博物館に露骨に“展示されているだけ”だったためだ。
保存のためとはいえ、ガラス張りの向こうに一列に並ぶ八部衆。
隔たれた印象は拭えない。
祖母から話を聞いた興福寺は、敷居を跨いで薄暗いお堂の中に入ると足元は土だったらしい。そして浮かび上がる八部衆。
その話に自然な幻想美を想像し、それを見たという祖母を羨ましく思った。
老若男女から人気の高い像なので、入場1時間待ちは当たり前だったか。
第一章は中金堂鎮壇具が展示。
寺院を建立する時に,地鎮のために埋納される品を鎮壇具という。金,銀,真珠,水晶,琥珀,瑠璃(ガラス),瑪瑙などの七宝と鏡鑑,刀剣など除魔の呪術的効果があると信ぜられるものが埋められた。興福寺の鎮壇具は約千数百点の膨大な量である。
平成十三年の発掘調査で出土したものを展示との事。
中国から渡来したことがわかる鳳凰八花鏡とそれに対を成すような日本製の蝶八花鏡など、対を意識させるものが多かった。
金銅大盤と銀大盤、前者には五穀を盛られた形跡は無いようだが、後者にはあるそうだ。素人の考えだが、そうなると金銅大盤にはお神酒の類か水が入っていたのではあるまいか。
仏教は渡来の宗教。日本の八百万の神々へのある意味最後の敬意かと思う。そこには感謝の意があるだろうと想像している。
第二章では阿弥陀三尊が直ぐ目に入った。思わず一礼してしまった。
穏やかなお顔や、連の緻密な装飾に目を奪われる。阿弥陀様を支える蓮の花の茎の湾曲も、造形的にもよく考えられていると思う。
婆羅門像はその生々しい苦行僧の描写に圧倒される。そこまで大きな像ではないが、存在感があった。
いよいよ天龍八部衆の面々。
古代の神々が如来守護の卷属となった姿。その雄雄しくも落ち着きがある姿に魅了されてしまう。
会場では十大弟子と対を成すように配されていた。
混雑もあり、真っ先に向かったのは阿修羅の次に大好きな迦楼羅。
飛翔するものへの情景。
一説には鴉天狗のルーツとも言われ、シヴァ神が乗る霊鳥・ガルダ。
鳥頭人身の姿はエジプトのトート神を思い出す。
真後ろに回って見たかった。理由は翼がある(あった)か確認するため。
結果は無し。甲冑姿のためか、腕が在るためか、欧米の大天使聖ミカエルのようにはいかないらしい。
手が失われ、鶏冠も欠けてしまっている。
翼は初めから無かったようだが、もし光輪のような翼があったなら、その豪奢さから阿修羅像と同等の人気になったのではと思う。
そのお隣に沙羯羅。頭に蛇が在ることから竜(ナーガ)にあたると思われる。(←諸説あるが)
何だか不思議だ。古代インド神話でガルダはナーガと敵対関係にあり、ガルダはナーガを喰らう。迦楼羅は殺生を憂い、仏教に帰依した時に竜を喰らうことをやめたというが…
これが迦楼羅の懺悔だろうか。
音楽神にして武神でもある乾闥婆。
音楽で人の魂を黄泉に導くという。一見するとその要素を見出しづらいが、その両方をきちんと表している。
そして阿修羅像。
同じ八部衆が一だが、何だか特別扱い。
仕切られた別空間に、360度拝見できるように置かれていた。
いや、特別な存在だろう。
他の八部衆とは異なり、甲冑姿ではない。三面は微妙に違う表情をされているが、同時に年齢も若干異なるという。
彼は“懺悔”を体現している。
阿修羅、常に帝釈天に闘いを挑み、負けることが定められている存在。
六道説では、常に闘う心を持ち、その精神的な境涯・状態の者が住む世界、あるいはその精神境涯とされる修羅道に住まうとされた。
戦闘神となった彼が武装を解き、祈る姿は安らかだ。
本来サンスクリットで「asu」が「命」、「ra」が「与える」という意味で善神だったとされるアスラがルーツである。その本来の姿に戻ったようにも思えた。
三面六臂の姿。
左右対称に展開されている腕は、まるで花が咲いたようで美しい。
今回の展覧会の目玉である、360度view
普段拝見できない背面は既に人だかりが。皆一様に動かない。
一周するのが一苦労だった。因みに、私も貼っているブログパーツの阿修羅もくるくる回っている。
これを見ながら思い出す。
阿修羅像を後にすると、第三章、鎌倉時代の復興期に造られた像たち。
大きさも巨大なものばかりで、圧倒されてしまう。
天邪鬼を踏みつけ正に雄雄しく立つ四天王像。
造られた時期も時期だけに、先程までの落ち着いた瞑想的雰囲気から変わった印象だった。
寧ろこちらが阿修羅よりも戦闘に身を置いている。
この大きさ…多聞天、時に毘沙門天と呼ばれる。
……『真・女神転生Ⅲ』に出てくる隠し要素の鬼神ビシャモンテン(ビルドアップ)を思い出した。
以前、龍の眼光 + タルカジャ3回がけ + 突撃 = 人修羅即死の素晴らしい死に方をしてしまった私。以来、トラウマとなってしまい、ビシャモンテン戦では火炎無効を覚えた上で、物理に強いマガダマを付けるようになってしまった…
飛天の類も展示。平等院のそれとは異なり、何処か重量感を感じさせた。羽衣が無い所為だろうか?しかし雲に乗った姿は艶かしくS字をしていた。
巨大な釈迦如来頭部。螺髪が所々失われているが、それらがどのように造型されたのかが素人目でも理解できた。頭部に螺髪を一つずつ挿していったようだ。
人も多く、それぞれをじっくり鑑賞するため長居は出来なかったのが残念。
阿弥陀三尊を見て惜しみつつも後にした時、側にいた上品な女性の声が聞こえてくる。
「仏様なのに、皆なめまわすように見て…拝顔するのだから、せめて手を合わせる位はしないといけないのにね……」
そうだ、これらは信仰の対象。
美術的価値もあるが、これは美術ではない。
人の思い、願いが向かった先。
風情があるのは長い年月、戦火を逃れただけではあるまい。そう思わせるものがあった。
それは人の思いであろう。悟りへの願い、懺悔、死者への供養、そして回向。それらの思いが宿っているのではないかと。
会場を回っている時、お堂でも無いのに襟を正す気分にさせられた。
東博らしい、“新しい試み”を取り入れた展示会だった。
阿修羅像だけでなく、ヴァーチャルリアリティーを使ったものなど。
展示品も約80点と小規模なので、見やすいはずなのだが。人が多すぎた。
欲を言えば、阿修羅だけでなく他の八部衆も360度見れるようにして欲しかった。例えばお堂に配されている位置になっている等。
しかし、非常に満足した展示会だった。