映画『永遠のこどもたち』感想
『永遠のこどもたち』
http://www.cinemacafe.net/official/eien-kodomo/
今や、好きな映画監督の一人でもあるギレルモ・デル・トロ(『パンズ・ラビリンス』)がプロデュースという。
宣伝通り、スピリチュアルなホラー映画だった。
ホラー映画としては、これは襲われる恐怖ではなく、“残酷な真相に迫る恐怖”だと思う。
そしてタイトルからも想像出来る、『ピーターパン』に通ずるものがあった。
いつにも増してネタバレ考察(多分)
かつてラウラがひと時を過ごした孤児院で起こっていた悲劇。
その真相にたどり着くと同時にラウラ自身にも息子の死という現実が突き付けられる。
舞台もそれ自体が不思議の国そのもののようであった。
元・孤児院なので教会建築様式が使われ、神聖さがある建物は、同時に不気味な気配を内包している。
さらに過去と現在、想像と現実が交錯する。
かつての孤児院にはもはや子供の姿も歓声も無い。静寂が支配する場所。
しかし夜に響く物音。
いなくなった子供と、
布を被せられ、隠されて育った少年の存在。
かくれんぼと隠し部屋――
何処か似て非なるディテールが共鳴しあい、物語は進む。
その幻想的な雰囲気の中で描かれるのは理想の母親像だった。
難病の息子を育む姿。
息子・シモンを必死に探す姿。
そして子供のありのままを受け止める姿。
子供が出すキーワードを元に即興で物語を創れるという、想像力豊かで、子供の求めを気付く事が出来る母親。
ただひとつ、気付けなかった事が取り返しのつかない結果を招いてしまったが。
ネタバレ考察
結局、ハリウッド映画によくある、実体化して人を襲う悪意の塊のような幽霊はいなかったのではないだろうか。
主人公が浴室に閉じ込められた時に遭遇したトマス。あれは実体化したトマスの幽霊ではなく、仮装したシモンだったのではないだろうか?
事件直前、シモンが“トマスの部屋”を一緒に見てくれなかった母への意趣返しのつもりで、困らせようと浴室に閉じ込めたようにも思える。
ただし、仮装をしている点でシモンはトマスの幽霊に“憑依”されていると解釈も出来る。
どちらにせよ、この仮装―隠された子供―隠し部屋―閉じ込められたの繋がりが映画全体に流れ、呼応している。
物語の冒頭にあるマトリョーシカのように、開けても開けても同じものが出てくるので、真相にたどり着けないような気持ちになる。
しかしそれを見つけた者は願いが叶うという。
自身の不注意からシモンを死に至らしめた事にうちひしがれ、シモンの亡骸を抱き、彼女は願う。
『シモンに会いたい』
(彼女の母性的な要素、物語を即興で創れるラウラの想像力の豊かさは、同時に彼女の子供っぽさとも取れるかも知れない。だとしたら彼女自身“永遠のこどもたち”の1人だろう)
かつて“永遠のこどもたち”の1人でもあったラウラは、理想の母として子供達に囲まれる。
子供に慈愛とその意思表示として永遠の物語を語り続ける不変の存在となって。
その姿は、メダイの聖母子像そのままに。
現実の2人の死と悲劇に遺された夫の手には、ラウラにお守りとして預けた聖母子像のメダイが返る。
悟ったように微笑む彼の姿に、様々な想いを乗せる事ができた。