勝 国彰展
渋谷・Bunkamura Box Galleryにて。
http://www.bunkamura.co.jp/gallery/
~2015/3/19まで。
以前の日記にも書いたが、眺めていると不思議と落ち着く。
これは私の中で変わらなかった。
最近の若手?日本画家の画風は、明度や彩度が高い色調が多いように思っていたが、勝国彰氏の描く色調は重みがあって惹かれる。
……これは私の単なる古典趣味だが。
童の姿をした、武者や仏教に組み込まれた武神達の姿。
それは“子供心に憧れた英雄譚”のイメージにも思えるし、子供故の“無限の可能性が秘める超越した力”を体現しているとも解釈できる気がする。
気になった作品の感想など。
《六地蔵》
横長画面にシンメトリックに配された六地蔵。
仏教の六道輪廻の思想に基づいた、六体の地蔵菩薩を指す。
左から2つ目の地蔵の口元にご飯粒が付いているように見受けられたが、それは餓鬼道に相当するためだろうか?
六地蔵には子供の守護・救済の願いが込められていたり、日本昔話の『笠地蔵』を思い出したり……人の救いについて考えさせられる1枚だった。
参考:地蔵菩薩(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E8%94%B5%E8%8F%A9%E8%96%A9
上記によると‘大地が全ての命を育む力を蔵するように、苦悩の人々をその無限の大慈悲の心で包み込み、救う所から名付けられたとされる’という地蔵菩薩の母性原理的な性格を、作品の子供の容姿を媒介に喚起された気がする。
画面中央上部に輝く月が地蔵の丸い頭と呼応し、7つの円が並んでいるようにも思える。
(それは7に纏わるものを私に想起させる)
《三十三天》《非天》
対の作品。
白象に跨る帝釈天象(三十三天)と阿修羅像(非天)。
この主題はいつも魅力的だと思う。
興福寺の阿修羅像のイメージも相俟って、阿修羅に神秘的なイメージを持っている人が多いのではないだろうか。
作品の中で太陽と月を手に掲げる阿修羅像は、何かの秩序を体現しているように思える。
阿修羅は戦闘神としての位置づけが強いが、元はサンスクリット語のアスラの‘アス’は「命」‘ラ’は「与える」といった意味合いがある。
それが否定の接頭語‘ア’と‘スラ’「天」から「非天」と解釈され、善神から魔神扱いになったという話は有名だ。
人の戦争の歴史があり、帝釈天(インドラ)に阿修羅(アスラ)は敗れる運命と決定付けられてしまったのだが。(これも諸説あって逆にアスラに敗れたりしている話もある)
対して帝釈天は「力の神」。純粋な「力」故に強く、敗北しないという解釈がある。
とはどんなもの指すのか、私はまだ理解していないが、阿修羅を「正義の神」と解釈し、慈悲のない正義を振りかざしたが故に敗れたり、という解釈もあるようだ。
参考:阿修羅の正義について
https://ashura.kokaratu.com/02ashura02.html
「正義」と「力」がお互いに勝ったり敗れたりと、この二神は善悪ではないが何か均衡を保っている気がしてならない。
他、《業の花びら》は、水面に咲く蓮の花の美しさと、仄暗い水の底にあるであろう泥――死に思いを馳せる。それが生きることの業であることを改めて思う。
作品を直接は意見するのは、2013年以来だった。
あの頃は震災のイメージが今以上に強く、鮮やかな楽土の雰囲気にそれを垣間見ようとしてしまっていた気がする……
そのためか、単純に書く時間が無かったのか、過去の日記を確認した所、2013年のものは書いていなかった。
311から4年経って、震災の傷と極楽浄土を切り離して、再び作品を見れるようになったのは私の進歩か。